子ども講座「熊野歴史探検 新宮の支配者たちの歴史を探る パート2」(10月26日)実施報告

令和元年10月26日(土)、子ども講座第1回講座「熊野歴史探検 新宮の支配者たちの歴史を探る パート2」を新宮市内にて開催いたしました。講座に参加していただいた皆様、講義を担当していただきました坊信次(ぼうのぶつぐ)先生、誠にありがとうございました。

それでは、当日の様子をご報告いたします。

 

 

 

 

 

 

今回の講座では約10名の方々にご参加いただきました。

 

神倉神社第2駐車場に集合し、そこで当日どのようなコースで歩くのかの説明がありました。

 

 

 

 

 

 

 

最初、本広寺と全龍寺周辺でそれぞれ説明がありました。

本広寺が、室町時代前半ごろから熊野別当にかわって新宮を中心に勢力をはった7人の僧〈七上綱〉のひとりである周防守行栄(すおうのかみゆきひで)の屋敷跡であったことや、全龍寺は、戦国時代に熊野三山を中心に、東は三重県紀伊長島、西は串本町田原付近、北は十津川・北山付近まで力をのばし、支配を広げた堀内氏の屋敷跡であったことなどの説明を受けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

次に、宗応寺に向かいました。

関ケ原の戦いの後、堀内氏にかわって浅野忠吉(あさのただよし)が新宮の領主となり、丹鶴山にお城をつくりました。その時に丹鶴山にあった香林寺〈のちの宗応寺〉と東仙寺を別の場所にうつしたこと、また、忠吉の子が若くして亡くなった時に五輪塔のお墓をたてたことなどの説明を受けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、神倉神社の本願である妙心寺に向かいました。

神倉神社の管理運営を行い、修理や建設に必要なお金を集めるために全国各地に熊野比丘尼らを送り出していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

妙心寺をでて、神倉神社に向かいました。

神倉神社は大きな岩をご神体としており、その形がヒキガエル(ゴトビキ)に似ていることから、ゴトビキ岩と呼ばれています。ゴトビキ岩の周りからは、弥生時代の銅鐸の破片や平安時代の経塚が見つかっており、平安時代に書かれたものによると、熊野三山の神が熊野にやってきた時、最初に降り立った場所が神倉山と考えられてたことなどの説明がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、新宮城跡附水野家墓所へ向かいました。

1619年(元和5)、徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が紀州藩主として和歌山に入国したことに伴い、付家老として新宮に入った水野重仲が亡くなった1621年に現在の場所に墓所を設け、水野家の墓所と定めたと思われるということや、近世(江戸時代)の歴代城主の墓碑がまとまった形で今に伝えられている貴重な文化財であることなどの説明がありました。

子どもたちは、気になった点を質問し、坊先生からの質問にも元気よくこたえるなどして、真剣に学んでいました。

 

講義の最後に、「新宮市にはお寺もたくさんあるがあまり行く機会がないだろうし、水野家入部400年という記念の年でもあるのその紹介もかねて本日の講義が興味を持ってもらうきっかけになればと思います。」とまとめられました。

 

 

講義は2時間半ほどで無事終了いたしました。本当にありがとうございました。

 

 

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