2.史跡 熊野参詣道
<熊野参詣道>
⑩阿須賀王子跡(熊野参詣道中辺路)※地図番号⑩
阿須賀神社は、主祭神を事解男命とし、ほか熊野三山の神々を祀っています。何度か火災にあい、古記録等は焼失したため、その創立は不明であるが、境内からは弥生~古墳時代の集落遺跡や祭祀遺物が発見されており、古代から蓬莱山に対する信仰があったと想像されます。長寛元年(1163)に書かれた古文書には、熊野権現が神倉山へ降りたのち、「阿須賀之北」、石淵谷に勧請されたと記されており、早くから熊野信仰との関わりがみられます。また、平安時代から熊野詣の人々が多数参拝に訪れ、阿須賀王子とされました。平安貴族藤原宗忠の日記『中右記』(12世紀)等、いくつかの記録に当社への参詣記録が記されています。神社背後の蓬莱山からは阿須賀神社の祭神を仏として表現した多くの御正体(12~15世紀)が発見されており、神道と仏教が融合した日本独特の宗教観を知ることができます。江戸時代には、熊野速玉大社の摂社として新宮城主の水野家から社領の寄進も受けています。明治時代になると、村社阿須賀神社として独立し、現在に至っています。熊野速玉大社と深いつながりがあり、熊野の縁起にも登場する熊野信仰の重要拠点の一つです。
④高野坂(熊野参詣道中辺路)※地図番号④
中世以来、熊野参詣の人々は、熊野本宮大社に詣でた後、熊野川を船で下って熊野速玉大社へ参り、海岸沿いの高野坂や大狗子・小狗子峠を越え、那智浜ノ宮を経て、熊野那智大社に至る経路をたどりました。 高野坂は、雄大な熊野灘を望みながら台地を越える、海岸の景観が美しい参詣道です。道沿いには江戸期の石碑や石の地蔵があるほか、当時の石畳も状態よく残っています。
⑤大雲取越(熊野参詣道中辺路)※地図番号⑤⑥
那智山(熊野那智大社・青岸渡寺)と本宮との間を結ぶのが、雲取越(大雲取越・小雲取越)です。
このうち、青岸渡寺の本堂裏の登り口から新宮市熊野川町小口に至る道を「大雲取越」といいます。
舟見峠・石倉峠・越前峠の3つの峠、「胴切坂」と呼ばれる急坂があるなど、大変な難路です。しかし、道中には33体の地蔵をまつる地蔵堂、楠の久保旅籠跡の石垣、梵字を刻んだ円座石、苔むした石仏や石段などがあり、熊野詣での歴史を体感できます。
⑥小雲取越(熊野参詣道中辺路)※地図番号⑧
那智山と本宮をつなぐ雲取越のうち、熊野川町上長井から田辺市本宮町請川までのルートを「小雲取越」とよびます赤木川の小和瀬の渡し場跡を出発すると、急坂があり桜茶屋跡・桜峠に至ります。石堂茶屋跡や明和四年(1767)と刻まれた賽の河原地蔵、百間ぐらを経て、伊勢路「万歳道」と合流して請川に下ります。
⑧万歳道(熊野参詣道伊勢路)※地図番号⑧
伊勢神宮と熊野三山とを結ぶ道が伊勢路です。参詣者の日記から、10世紀後半には参詣道として成立していたと推定されていますが、利用が増えるのは、伊勢参りと那智山青岸渡寺を出発点とする西国三十三所巡礼が盛んになる17世紀以後のことです。三重県熊野市の「花の窟」から海岸沿いを熊野速玉大社へ向かう「七里御浜道」と内陸を熊野本宮大社へ向かう「本宮道」があります。 新宮市には、熊野市紀和町の楊枝から熊野川を渡って新宮市熊野川町志古に至り万歳峠を越えて小雲取越へつながる「本宮道」が通っており、万歳道と呼んでいます。
⑦熊野川(熊野参詣道中辺路)※地図番号⑦
熊野参詣者らは、熊野本宮大社と熊野速玉大社との間を舟で行き来しました。そこで、熊野川も「参詣道」との位置づけで、中辺路の一部として世界遺産に登録されています。両岸には山が迫り、点在する奇岩怪石は12世紀には熊野権現の持ち物と考えられ、のちには形の特徴に応じて独特の命名がなされました。