本広寺の付近は、新宮周防守行栄の屋敷があったところです。行栄は、南北朝時代の中頃から「熊野別当」に代わって勢力を持った「熊野七上鋼(しちじょうこう)」といわれた土豪の一人で、戦国時代末期に堀内氏に滅ぼされるまで最大の有力者でした。
屋敷跡は発掘調査が行われていないため、詳しいことはよく分かりません。しかし、約360年前の江戸時代前期制作の「新宮古図」に、本広寺の前身である法花寺が四周に水を引いた堀を備えた姿で描かれています。中世の館であったことを思い起こさせます。
その堀は、現在でも道路の下に石積が残り、水路として利用されているとのことです。