湯川麑洞(ゆかわげいどう)の墓

南谷墓地に、儒学者・湯川麑洞(1814~1874)の墓があります。

湯川麑洞は、新宮藩医・湯川寛仲(かんちゅう)の子として生まれ、子供のころから伊勢や津で勉学に励みました。若くから大阪の大塩平八郎の洗心洞塾で講義を行い、大塩は彼の学力を高く評価していたそうです。

麑洞は、大塩が1837年に起こした「大塩の乱」には関与せず、事件後は江戸の昌平黌(しょうへいこう)(幕府の学問所)などでさらに研鑽を積みます。1847年には新宮領主水野忠央(ただなか)の招きで江戸の藩校・育英館で藩士の教育にあたりました。明治維新後は新宮に戻り、下本町に開校した新宮小学校の教授として当地方の教育に尽力し、多くの優れた人材を生み出しました。

 

湯川麑洞の墓

湯川麑洞の墓